トリコロール/青の愛(1993)

20年ぶりに再視聴。

コレに限らずなんだけど久しく観ていなかった映画では、覚えているのはだいたいショッキングな場面だけになってしまうのですよね。その記憶だけが後々まで残り「なんか気が重いなあ」となり、見返すハードルが高くなっていきます。そういうこともあって、やっぱりメモくらいは残しておかんば!となり、こうしてブログ記事にしているわけです。

多分当時も思ったはずなんですけど、もともとクリエイティヴな仕事をしてた人は、いくらそれを忘れよう捨てようと思っても、もう無理なんだってこと。やがて断片的にフラッシュバックのように音が鳴るようになり(音楽家の物語)、結局は逃げることが出来ません。

また、あらゆる機会、どんな場面に於いてもクリエイト脳は休むことを許されず、全てが創作に繋がり、どんな場面でも音が鳴り、作品の完成に向かわせます。それはもう作家の意思ではないんですよね。「音楽が」そうさせる。そうして結局、彼女は逃げようと思っていた全てと向き合うことになる。


さて彼女がそこまで葬りたい忘れたい、と思っていたのは何故なんでしょう。これは今回気づいた視点なのですが、そもそも彼女は夫である作曲家のゴーストだったのではないかということで、そういう「すべてを外向きに粉飾している状態」が、本人は気づいていなかったけど実は相当キツかったのではないかなと。他の家族には好き勝手されて、自分自身だけがイメージを守るのに必死になっていた。でももうぶちまけてもいいのではないか。そう気づいたのが「自由=青」だと。

厳密にはゴーストではないですよね。夫である「作曲家」の明確な指示や流れの決定があり、それに沿って彼女が実際の音にしている。これは以前に話題になった佐村河内事件と近いものです。作曲家とは言えなかったけど構成家ではあった。新垣隆さんはとっても才能のある方ですが、では佐村河内名義のあれらの作品は単独で出来たかと言われれば、それはないと思われ、やはりもともとの構成や流れの指示があって、それに沿って曲が書かれたわけだから、作曲家、とは呼べないにしてもプロデューサーではあったろうし、納得の上で作曲を2名の名義にしてもよかったのではないかと思います。

この映画の流れを見て、そんな過去の事件の顛末を思い出しました。完成させたのは彼女だろうけど、それは夫のメモや流れの指示があったからで、単独作品ではない。彼女はそういう「実務家」の立場だったのですよね。それを公にして「自分自身として」開放されるべきだというのが、この映画の流れのような気がしました。

作品内の音の演出として「楽譜をなぞると音が鳴る」「日常で突然オーケストラが鳴る」というのがあるけど、これはもう「作曲家」脳そのもので、私ですら、常にこうして何気ない日常でも、ふとしたきっかけで音が鳴りますし、そうするとそれをメモしますし、24時間全く休みなく、こういう脳内作業は続きます。

まあ映画見てると唐突に巨大な音が鳴るから驚くだろうけど、実際音楽家の脳内はあれに近いものはあります。その辺の表現法は見事だと思いました。


あとみんな言ってるけどジュリエット・ビノシュさんの存在感は凄まじいものがあって、彼女ありきというか、全編が彼女のイメージビデオみたいになってるという気すらします。

記憶では青だけでなく白も赤も当時観てたはずなんだけど、手元に残ってたビデオがこの「青」だけだったというのも、私自身も同じように感じていた、ということの証左である気がしました。やっぱり気持ちは正直なんですよ。音楽家ですもの。笑。

0コメント

  • 1000 / 1000

Kara P Satellite📡

からP です。